[mopita] ARTICLE 20200706 アオアシ特集|小川諒也×バングーナガンデ佳史扶「絶望に希望」前編|FC東京 携帯アクセス解析
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アオアシ特集

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小川諒也×バングーナガンデ佳史扶「絶望に希望」前編


小川諒也×バングーナガンデ佳史扶がアシトだったころ
「絶望に希望」前編

ある日、告げられたサイドバックへのコンバート。それを受け入れたからこそ、今がある。世界を目指す青赤の2人の左サイドバックが、漫画『アオアシ』の主人公・青井葦人だったあのころと、これからを語り尽くす。小川諒也と、バングーナガンデ佳史扶が見てきた育成年代とは――。

◆嫌だったサイドバックへのコンバート

―まずは、いつからサイドバックでプレーしていましたか?
佳史扶「僕は初めてサイドバックでプレーしたのは、中学2年生のときでしたが、本格的にやり始めたのは高校2年生からでした


諒也「オレも、中学時代にForza’02で左サイドバックになった。小学生のときは、いい選手がセンターラインにいるイメージがあったので、最初は本当に嫌だった」

佳史扶「僕も、最初は嫌でした。もともと攻撃が好きだったので、『何で自分がサイドバックをやらなきゃいけないんだ』という気持ちが強かった」

諒也「佳史扶みたいに、FWとか、前目のポジションの選手のほうが辛かったと思うけれど、もともと、センターバックや、中盤の選手だったので、どうしてもサイドに追いやられたというイメージを持ってしまった。当時の監督からは『左利きだし、それを活かすには左サイドバックがいいと思う』と言われたが、正直、落ち込んだ」

―その後、サイドバックの面白さをどんなところに見いだしましたか?
佳史扶「やり方次第で、FWや、サイドハーフとはまた違ったカタチで攻撃に関われるところですね。自分は、どちらかというと、足が速いほうだったし、対人プレーが好きだったのでマッチアップした相手との1対1に魅力を感じました。そういう場面が増えるほど、自分に合っていると感じたし、好きだと思えました」

諒也「オレは中学2年生で、3年生の試合に出してもらえるようになったときかな。センターバックに比べて攻撃に出て行けるところは、やっぱり魅力的だった」

―サイドバックの奥深さを感じた瞬間は?
佳史扶「僕は、サイドバックでプレーするまでオフ・ザ・ボールの動きを考えずにプレーしていました。でも、サイドバックをやってみると、守備では一列前のサイドハーフを声で動かさないと、ボールを奪うこともできない。攻撃では前の選手とうまく連係できないと、自分のドリブルも活きてこない。そういうところが、一番悩まされたところでもあったし、成長できた部分でもあった」

諒也「高校時代はそこまで多くを考えていなかったかもしれない。でも、思い描いた通り、崩せたときは気持ちいいし、常にいい距離間でトライアングルができているときはボールが気持ち良く回る。5レーンの理論で言うと、自分が一番外のレーンにいたときに、同じレーンにいる選手に縦パスをつけても、もらった選手の角度がなくなってしまう。それが一つ内側のハーフレーンに入って角度をつくることで、受け手も敵が見える位置でボールをもらえる。その逆もそう。そうやって次第に、頭を使ってプレーできるようになっていったときは面白かった」

◆互いが意識し合う存在

―アカデミーと、高体連で歩んできた道は違いますが、それぞれいろんな選手が集まってくる中で感じたことはありましたか?
諒也「オレ自身は高校サッカーを観ていて、選手権に出場したいという思いが強かった。Jクラブでプレーする自信もなかったし、自分の中では初めから無理だと思っていた。中学時代に複数の高校から誘いを受けて、その中から流経大柏高を選択した。もちろん上下関係も厳しかったが、選手が全国から集まってくるから初めは同じ学年でもバチバチしていた」

佳史扶「アカデミーの選手は、いい意味でも、悪い意味でも、みんなプライドが高かったと思う。初めはぶつかることもしょっちゅうありました。ただ、そこをうまく監督やコーチがまとめてくれて、いい方向に導いてくれた。ぶつかることはあっても、それが悪い方向に進むことはなかったですね」

―アカデミー出身選手の中には、高体連に進む選手も出てきます。
佳史扶「同じアカデミー出身選手と、プレミアリーグで再会したときは、お互いが意識し合う存在でした。向こうは昇格できなかった悔しさがあっただろうし、僕たちも負けられない気持ちが強かった。元チームメイトがいるチームとの対戦はいつも特別だったと思う」

諒也「オレたちは、ユースはどこかで自分たちよりも上だと思っていた。流通経済大学柏高にも、ユースに昇格できなくて入学してきた選手がいた。そういう選手たちは、ユースと対戦するときは絶対に負けたくないという気持ちでプレーしていた」

-高体連と、アカデミーのそれぞれの印象や違いはありますか?
諒也「相手に代表選手がいるときは、オレがマークをしたいといって取り合いになった。試合前にみんなで『代表って何番なの?』って話もよくしていた。そうやって率先して、ガンガン行く選手ばかり。そいつだけには負けたくないってみんなが思っていた。ユースが、うまいのは分かっていたから、そこで競ってもしかたがない。それなら体を張って、気持ちよくプレーさせないようにしていた」

佳史扶「周りの人は、高体連のチームのことを泥くさいという印象を持っていたが、僕自身は自分のほうが泥くさいプレーヤーだと思っていた。だから、そこで相手を上回ってやるつもりでいつも試合をしていました」

◆それぞれの成長曲線

-育成時代に最も成長した部分は?
諒也「技術は、やっぱりユースのほうがあったよ。でも、高体連は3年間を懸けて、戦える選手に成長していく。いざ、プロになったときに、要は観客の前で力を発揮できるかどうかが問われる。チャンスをもらったときに自分本来の力を出せれば、プロの舞台であっても活躍できる。そういう意味でも、高体連の選手は勝負強い選手が多かったと思う。うまい選手はいくらでもいるが、球際でバチバチ行ける選手が、この世界では残っていくと思う。それに、人数も多かったからメンタルも鍛えられる。一学年に50人以上いて、その中の11人がチームの代表として試合に出ていく。監督に名前を覚えてもらうことも含めて、競争は常にあったし、毎日がサバイバルだった。同じポジションに7,8人ライバルがいて、その中で一番にならないといけない。いつ取って代わられてもおかしくなかった。だからこそ、追いつかれないように必死に自主練をしていた」

佳史扶「僕自身は、人間的に成長したと思っています。U-15深川に入る前は挨拶もできなかったし、人ともしゃべることもできなかった。そのため試合中に声を出して指示を出すところは苦労した部分でもあった。そこで苦しんでいなければ、自分はプロになれていなかったし、そういう部分に重きを置いている東京と、巡り会ったことで、以前に比べて変わることができたと思う。そういう意味でも総合的に成長させてもらったと思っている。U-18の時にJ3や、トップチームの練習に参加させてもらったことも大きかった。今思えば、当時の僕は、そんなレベルの選手ではなかった。そうした舞台で経験を積めたので、同世代を相手にしたときに余裕も生まれたし、常に向上心を持ってサッカーに打ち込めたと思っている。そういう部分はほかのチームではできない経験だったと思う」

諒也「高校年代は、自主トレでいくらボールを蹴っても、大きなけがにはつながらなかった。クロスや、キックの練習をしっかりとできたことは大きい。キックに関しては、やればやるだけうまくなる。蹴り込んだ数が自信になったし、その分精度も上がったと思っている。佳史扶は右に持ち出して、そこからパスも出せる。オレも戻れるなら小学生まで戻って、右足をもっと練習したいかな(苦笑)。そうすれば、プレーの幅がもっと広がるから」

[文:馬場康平]



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