[mopita] ARTICLE 20200706 アオアシ特集|東慶悟「広がる世界」後編|FC東京 携帯アクセス解析
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アオアシ特集

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東慶悟「広がる世界」後編


東慶悟がアシトだったころ
「広がる世界」後編


北九州市に転がっていた原石は、大分トリニータU-18で磨かれ、それまでとは違った輝きを放つようになる。後の東慶悟を決定づける、2つの出会いを彼は「自分にとっての分岐点」と呼んだ。

親元を離れ、飛び込んだ大分では、文字通りサッカー漬けの毎日を過ごした。高校の授業が終わると、寮に一度戻って身支度を整え、練習場へと向かう。すぐ隣のグランドでは、トップチームの選手たちがトレーニングをしていた。定期的に練習試合も行われ、否が応でもプロを意識する最高の環境だった。

練習休みは週1回あったが、年に一度の花火大会を除けば門限は19時。寮には体育館やジムも併設され、消灯時間の23時までいつでも自由に自主トレができた。

「ユースという感覚は、ほとんどなかった。トップチームからくる使い古しの練習着は、シャツを出すようにデザインされていた。でも、必ずシャツイン。それが当たり前だった。選手としてもそうだけど、人としてしっかりと育てたいというクラブの理念があった。だから、サッカーだけをやっていればいいという環境ではなかった。もっとチャラチャラした雰囲気だと思っていたのに、メチャクチャ厳しかった」

慣れない寮生活に加え、1年生は練習前のドリンクや、ボールの準備に始まり、食事の配膳も手伝う。想像以上のハードな毎日に、「1年生のころは逃げ出したくなった」と、初めはため息ばかり吐いていた。

◆剥奪された王冠

若松中の王様は、当時の大分U-18を率いた村田一弘監督(現・ファジアーノ岡山U-18監督)によって加入早々に王冠を剥奪される。

「今のままでは通用しない」

中学時代までのプレースタイルは、そう言ってバッサリと切り捨てられた。これが転機となる一つめの出会いだった。東は、当時を振り返って「監督の村田さんは、すごく厳しい人でチームに王様をつくらなかった。今の(長谷川)健太さんと、どこか似ている部分があったかもしれない。サッカーも、みんなで頑張ってというスタイルだった」と言い、冗談交じりにこう続けた。

「ようやく高校1年生からオフ・ザ・ボールの動きを覚え出した(苦笑)。周りのレベルが上がったことも大きい。走ればボールが出てくるようになったし、守備も含めてやらないといけないことは多かった。足りないモノを補ってくれる監督と出会えたことは大きかった。村田さんからは厳しさや、人間性、走ること、試合中の動きを教わった。そういったことは、中学で学んでいなかった部分。それが、今のベースにもなっている」

プレースタイルを否定されても、それが挫折だと思っていなかったという。

「プロになるための働きかけをしてくれたし、本当に、いろんなことを学んだ。中学のままのプレースタイルではプロになれていなかった。例え、なれたとしても苦戦していたと思う。そのきっかけを与えてくれた、村田さんをはじめ、全ての人に感謝したい。(大分U-18の環境は)当時の自分にはマッチしていたし、足りないモノを補ってくれる監督と出会えたことは大きかった」

◆身近にあった最高の手本

東は、その成長課程で「小さな悩みはたくさんあった。でも、心が打ち砕かれるようなことはなかった。全部が自分には必要なことだったから」と断言する。キャリアを通して大きなけがが少なく、高校時代も目立った長期の離脱は1度だけ。それも、「今なら笑い話っぽくなるが……」と言って、記憶を辿っていく。

「大分では週1回、必ず走りの練習があって100、200、300mのタイム走とか、スタジアムの周りもよく走った。それが、高校2年生のときに、急に息が上がるようになって走れなくなった。周りは『慶悟の気持ちが弱いから』と、なっていたが、突然のことで理由も分からなかった」

原因は検査で分かった。

「村田さんから血液検査行ってこいと言われて、調べたら本来血清の中に60~210(μg/dl)ぐらいなければいけない鉄が一桁ぐらいの値しかなかった。それから1、2カ月練習を休んで鉄剤を飲み続けた。その時期の練習中は、一人だけボール拾い。焦り? なかったですね。それぐらい走るのが、相当キツかったから。どこかで、ラッキーぐらいに思っていた。それは、今でもそうで自分に都合良くメンタルを書き換えられる。でも、復帰したときは、ちゃんと走りの練習でも先頭を走るようになったよ」

めまぐるしく変わっていく環境の変化にも柔軟に適応できた理由が、このエピソード一つで分かる。いつも一所懸命で、スポンジのように新たなスタイルを吸収していった。そうできたのも、手本となる選手が身近にいたからだった。

「厳しい練習がなかったらプロになってない。だから、本当に感謝している。まさに、分岐点だったと思う。それに、1学年上には清武弘嗣がいた。こういう選手が、すごいんだと身近で感じられたことは大きかった。みんなが憧れていたし、当時からメチャクチャうまかった」

大分U-18時代の清武はけがも多く、同じピッチに立てた回数は決して多くはなかった。「正直、真似ようと思っても、真似られるレベルではなかった」が、いつも気づけば自然と目で追っていた。目指すべき姿に、どれだけ近づけたのか。自らの現在地を計れる存在が隣にいたから迷わず突き進めた。

「ヒロシ君は、当時から一人で持ち上がるというよりも、常に周りを活かし、自らも活かされるプレースタイルだった。そういう存在が近くにいたことは大きかった」

絶え間なくボールに関与し続ける東慶悟は、こうして出来上がっていった。次第に、トップチームの練習に参加する機会も増え、サテライトリーグの試合にも積極的に起用されるようになる。

そして、トップチームへの昇格を勝ち取る。そのころには、かつての王様の面影はどこにもなかった。

◆自分でつかんだ答え

その後、大宮アルディージャへと完全移籍し、ロンドン五輪を経て翌2013年からFC東京に活躍の場を求めた。19年からは青赤の10番を背負い、キャプテンの重責を担うまでになった。

「誰よりも勝ちに飢えていなければいけないと思っているし、正直しんどいときもある。でも、それを幸せに感じることもある」

攻守の献身性は年齢と経験を重ねるごとに、増しているようにさえ映る。そんな東に「育成での6年間で一番大切してきたこと、必要なことは何だったのか?」と、聞いた。

「プロになった後も、壁にぶち当たる。そのための準備が、その6年間でできていれば、そこでの経験は必ず活きてくる。環境や、サッカーのトレンドも変わっていくもの。ただ、やっぱり素直な心や、謙虚な気持ちは絶対に必要だと思う」

サッカーの楽しさは、環境やレベルによって質を変えていく。そこに真正面から飛び込むことができれば、新たな自分を発見できる。邪魔なプライドは横に置いて、まずは乗っかってみる、だ。

自分でつかんだ答えなら、一生忘れない――。歩んだ道のりと、いまの東の姿が、それを教えてくれる。



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