[mopita] ARTICLE 20200706 アオアシ特集|東慶悟「広がる世界」前編|FC東京 携帯アクセス解析
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アオアシ特集

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東慶悟「広がる世界」前編


東慶悟がアシトだったころ
「広がる世界」前編


「北九州市に面白い選手がいる」

その噂を聞きつけ、2005年当時U-15日本代表を率いた城福浩監督(現・サンフレッチェ広島監督)は、九州へと向かった。そこにいたのは、王様然としたプレーでチームを束ねるMFだった。それが、北九州市立若松中時代の東慶悟だった。

当時から光るモノがあったという。中学まで所属していたのは誰もが自由に入れる学校の部活動だったが、すでに高い技術を身につけていた。

ただ、欠点があった。城福は「今なら笑い話になる」と言い、若き日の東のプレーぶりをこう振り返った。

「確かに、ボールを持てば、面白い選手だった。その後、一度(翌年の)代表にも招集したが、パスを出した後に歩くような選手だった。そんな選手はほかにいないから、別の意味でメチャクチャ目立っていた」

チームで抜きんでた存在だったため、どこかプレーが断続的で連続性に欠けていた。東は「中学までは一番うまかったし、走らなくても自然とボールも集まってきた。チームメイトの一人に、(永井)謙佑みたいな足の速いFWがいたから、ペナルティエリアあたりで歩いていても、そいつが裏に走ってそこにパスを出すだけで成り立っていた」と言う。

だから、この当時の東の評価は「もしも、高いレベルの場で練習する時間がもっとあれば、面白いのに」で、止まっている。

しかし、その7年後、彼は日本の10番を背負い、ロンドン五輪の舞台に立った。中学時代とは真逆のプレースタイルを身につけ、強豪国を次々と破って44年ぶりの準決勝進出の快挙を成し遂げる。

◆兄の背中を追って

そこまでの道程で、少しずつ世界を広げてきた。そこに、「壁にぶち当たったり、打ち砕かれたり」という文言は続かない。転がるボールを追いかけていたら、気づけば世界が広がっていた。そう表現する方がしっくりくるのかもしれない。

サッカーを始めた理由も、少し年の離れた(4つ上の)兄がやっていたからだった。小学1年で兄の背中を追うようにボールを蹴り始めるが、それも渋々だったという。

「今でも嫁に言うからね、野球をやってみたかったって。でも、両親はどうせやるなら同じスポーツをやってほしいと思っていたから。自然とサッカーになった」

幼心に兄と一緒に楽しみたい、家族を喜ばせたいという気持ちが、どこかにあったのかもしれない。それが第一歩だった。

どこに行くにも、兄の後をついて回った。必然と、体格差のある兄の友だちが遊び相手となった。最初からそれが当たり前の環境。「でも、サッカーで全然勝てなかったという記憶はなくて、気づいたら普通にできていたと思う」。そうやって自然な形で飛び級を果たしているのだから、同学年の友達よりも上達が早いのは当たり前だった。

その世界が、そこからちょっとだけ広がる。

「小学校のころは、いつもサッカーをしていた記憶しかない。通っていた深町小のサッカークラブの練習は、週3回程度で、週末は公式戦や練習試合をしていた。そこで、サッカーの楽しさを教わった。同じ学年には、県内でも良い選手がたまたまそろっていた。だから県大会でも上位に進出したり、フットサルの全国大会にも出場した。仲間にも恵まれて試合に勝つことがうれしかったし、そういうことの積み重ねでサッカーに夢中になった」

◆こんな場所でサッカーがしてみたい

そうやって仲間と勝つ喜びや、一緒になって取り組むことの楽しさを知っていく。中学に進学するころには、気づけば小さな街の王様になっていた。

そして、城福の目に留まった、東はJFAのナショナルトレセンに2度招集され、九州にその名が知れ渡る。「福岡県のトレセンでもうまい選手がいて、オレは3,4番目ぐらいの選手だったと思う」。

このころには東福岡高や、東海第五高をはじめとする地元・福岡の強豪校からも誘いが届くようになる。ここから東のサッカー人生が好転し始める。

「当時、大分(トリニータ)にいた、タテさん(立石敬之=現・シントトロイデンCEO)は元々同じ地域の出身で、若松中もタテさんが通っていた中学が合併されてできた中学だった。そこで、オレを外部コーチとして教えてくれていたのが、タテさんの甥っ子だった。そういう縁もあって、大分の柳田(伸明=現・アビスパ福岡強化部部長)コーチが、一度、中学の練習を観に来てくれた」

そうした縁が重なり、大分トリニータU-18からもスカウトされたのだ。まずは興味本位で練習場見学に訪れ、東は人工芝グランドや、サッカーに打ち込める環境に目を奪われた。

「中学では部活だったから相当勇気がいった。でも、この環境に飛び込んでみよう」

◆初めての日の丸

親元を離れ、初めての寮生活が始まる。期待に胸を膨らませていた高校進学早々に、うれしい報せが届く。U-16日本代表のイラン遠征メンバーに招集が掛かったのだ。

ただし、結果は散々だった。中学時代のプレースタイルは通用せず、そこからの高校3年間は世代別代表からも縁遠い生活を過ごすことになる。本人は、それを挫折とは思わなかった。

「何もできなかったし、うまくいかなかった。自分の中でも、全然ダメだとすぐに分かった。でも、まあそうだろうなって現実的に捉えていたし、そこで自信を失ったわけではなかった。このままじゃいけないとか、やばいと思うこともなかった。そもそも育ちが、エリートだったわけじゃない。中学の部活出身で、むしろ周りも『代表に選ばれてすごいじゃん』という風に思っていた」

まだまだロンドン五輪の10番への道のりは遠そうだ。だが、東慶悟は、大分のアカデミーで劇的な変化を遂げる。鼻っ柱を折った指導者と、目指すべき手本との出会いによって。本人の言葉を借りれば、「思っていた環境とは、まるで別世界」の生活が、ここから本格的に幕を開ける。

[文:馬場康平]



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